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東京地方裁判所 平成10年(ワ)10597号 判決 2000年12月18日

原告

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

杉政静夫

被告

株式会社アイビ・プロテック

右代表者代表取締役

松田茂

右訴訟代理人弁護士

槙枝一臣

高橋一嘉

篠宮晃

行方洋一

冨田烈

大西玲子

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は,原告に対し,金162万円及び内金54万円に対する平成9年12月6日から,内金54万円に対する平成10年1月4日から,内金54万円に対する平成10年2月7日から,それぞれ支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は,被告を退職した原告が,原・被告間で締結された覚書に基づき,被告に対して退職金の支払を求める事案である。

一  前提となる事実

1  当事者

被告は,平成5年4月19日の設立直後の同月30日,株式会社アイテックトラベルセンターから旅行業に関する営業権の譲渡を受けて旅行業を開始し,国公立大学及び私立大学,国公立病院及び私立大学病院,大手製薬会社等を顧客として,国際会議の旅行企画,手配並びに海外出張等の手配を主な業務としていた株式会社である。ただし,被告は,平成12年1月に旅行部門を閉鎖してからは,右業務を行っていない。

原告は,右株式会社アイテックトラベルセンターに在籍しており,被告が同社から旅行業の営業譲渡を受けた時点で被告に入社して勤務し,後記のとおり平成9年10月20日に被告を退職した際には,営業第二部(泌尿器,ガン,化学療法等の国際会議に関する旅行営業を所管事務とする部署)部長の職にあった。

(<証拠略>,原告本人,弁論の全趣旨)

2  覚書の締結と原告の退職

原告は,平成9年5月ころ,被告の顧問であったAとの間で,原告が被告を退職し社会福祉法人への転職をするとの話が出始めた。原告,Aらとの間で右転職の協議が進められていたところ,新たに設立される社会福祉法人「H会」(仮称)(以下「H会」という。)に原告が理事として就任するとして,転職の件が具体化したため,原告は,右社会福祉法人設立準備のため,平成9年9月30日,被告に対し,同年10月20日付けをもって被告を退職する旨の辞表を提出した。

右辞表提出に際し,原告と被告との間で次のとおりの覚書(以下「本件覚書」という。)が締結され,被告は,原告に対し,退職金名目で合計162万円の金員を支払う旨約した。

「1 原告は,被告を平成9年10月20日付けにて退社するものとする。

2 被告は原告の退社後の職務に対し賛同し,被告の方針として支援するため,原告の退社事由を「会社都合による退職」扱いとする。

3  原告は退職にあたり,次により業務の円滑な引継を行うものとする。

(1) 学会資料及び顧客名簿等の整理・引渡

(2) 重要顧客に対する文書の発送及び可能な範囲での面談・紹介による引継ぎ

(3) その他,被告の要請による業務遂行上不可欠な事項の引継ぎ

4  被告は原告に対し,次の給与及び退職金を支給する。

(1) 10月分給与を平成9年10月31日に支給する。

(2) 退職金として,平成9年11月28日,同年12月26日及び平成10年1月30日に,それぞれ給与の1か月分相当額を支給する。

5  被告は,原告が理事として参加する社会福祉法人「H会」(仮称)の設立にあたり,原告よりの要請があった場合,保証人等可能な限りの便宜供与を行うものとする。」(原則として原文どおり引用したが,主体を原告,被告と訂正したほか,一部用語を訂正した部分もある。)

原告は,平成9年10月20日付けで被告を退職した。(争いのない事実,<証拠略>,原告本人,弁論の全趣旨)

3 原告と株式会社T社との関係等

原告は,右のとおり被告を退職した直後,株式会社T社(以下「T社」という。)へ入社した。

T社は,被告と同様,大学病院の医師及び大手製薬会社等を顧客として,国際会議の旅行企画,手配並びに海外出張等の手配を主な業務としている株式会社である。

(争いのない事実,弁論の全趣旨)

4  原告の逮捕等

被告は,平成10年1月26日,原告を電子計算機損壊等業務妨害罪にて警視庁に告訴した。原告は同年4月16日,右容疑で逮捕され,同年6月30日,東京地方裁判所において懲役1年6か月執行猶予3年の有罪判決を受けた。

(原告本人,<証拠略>,弁論の全趣旨)

5  被告の就業規則等

被告の就業規則は,懲戒解雇の事由として,従業員が「刑事事件に関し有罪判決を受けたとき」もしくは「会社内において,窃盗,横領,傷害等刑法犯に該当する行為を行ったとき」が挙げられている(40条2(4)及び(4))。

被告の就業規則には,退職金支給に関する規定はない。

(争いのない事実,<証拠略>)

二  争点

1  本件覚書4項「退職金」の意味(生活援助金との意味を有するにすぎないか(被告の主張),労働契約としての退職金の意味を有するか(原告の主張))

2  原・被告間の本件覚書に基づく金銭支払契約につき,被告がした債務不履行解除は有効か

3  右契約につき,被告がした詐欺取消しは有効か

4  原告が被告に対して退職金を請求することは,権利の濫用に当たるか

三  争点に関する当事者の主張

1  本件覚書4項「退職金」の意味(争点1)

(一) 被告の主張

被告には退職金支払の定めも慣行も存しない。本件覚書は,被告が原告に対し退職金名目で金員を支払う旨定めるが,これは,原告が社会福祉法人の理事に就任することを前提に,平成10年6月まで右法人からの給与の支払を受けられない原告のために,その間の失業保険収入を補填するため,平成9年11月から平成10年1月まで,給与相当額を支給する旨約したものである。

(二) 原告の主張

本件覚書4項の「退職金」とは,文字どおり労働契約としての退職金の意味である。

原告が設立準備段階のH会に参加するとしても,それがいつ設立認可を受け,原告がいつから稼働するか全く不明であったのであり,現に設立認可の取得はとん挫している。このように,原告がH会に就職するかどうかについて見通しが立たない状態の中で,3か月の生活援助金などというのは全く意味を持たない。

2  原・被告間の本件覚書に基づく金銭支払契約につき,被告がした債務不履行解除は有効か(争点2)

(一) 被告の主張

被告の原告に対する右給与相当額3か月分の支払は,原告が被告を退職するに当たって,業務の引継ぎを行い,被告業務に差支えのないよう処置すべき義務の履行と双務的関係にある(本件覚書3項)。

ところが,原告は,平成10年度米国泌尿器学会資料の送付先リスト,被告に報告なく原告宅あてに取り寄せた学会資料,顧客への会社あいさつ状リスト等を提出せず,また主要顧客への引継担当者の面接紹介も一切行わないなど,同人が在職中担当した泌尿器,がんその他関係学会の資料の受渡しや具体的引継ぎをほとんど行っていない。

被告は原告に対し,右引継ぎの履行を再三催告したにもかかわらず,原告はこれを履行しないので,被告は,平成10年2月25日付け本訴答弁書をもって前記支払契約を解除する旨意思表示をした。

(二) 原告の主張

本件覚書3項記載の義務の内容は明確ではない。また,原告は,被告から文書で指摘された事項については,被告に対し書簡(<証拠略>)によって返答してあり,その他には被告から具体的に行うべき事務を指摘されたことはない。したがって,原告に債務不履行責任はない。

3  原・被告間の本件覚書に基づく金銭支払契約につき,被告がした詐欺取消しは有効か(争点3)

(一) 被告の主張

前記のとおり,本件覚書記載の本件退職金名目の金員支払の実質は,原告が社会福祉法人へ転職するまで失業保険収入しか得られないことを前提とした,原告に対する生活援助金の支払合意である。

しかしながら,原告は,被告退職と同時に被告の同業のT社へ入社することを秘し,あたかも原告において,社会福祉法人の理事就任まで失業保険の給付金収入しかないと被告を欺罔し,その旨被告を誤信させた上,本件覚書を締結させて被告に金員の支払いを約束させたものである。

被告は原告に対し,前記同様本訴答弁書をもって,本件覚書における金員支払の意思表示を取り消す旨意思表示をした。

(二) 原告の主張

原告がT社への転職を決意したのは平成9年8月終わりころであり,それも,H会が正式に設立されるまでの腰掛けである旨告げてしたことである。原告は,H会の設立準備金として1500万円を拠出したが,このことは原告がH会への参加を優先していたことの表れである。

以上のとおりであって,原告が被告を欺罔したとの事実はない。

4  原告が被告に対してこれを請求することは,権利の濫用に当たるか(争点4)

(一) 被告の主張

次の理由により,原告の退職金支払請求は権利の濫用であって許されない。

(1) 被告には退職金支払の定めも慣行もなく,原告と被告との間で支払が約束された退職金名目の金員は,被告退職後H会への就職までの間の生活援助金であって,功労報償的な意味での退職金とは性格を異にしている。

しかしながら,原告は,被告から退職すると同時にT社に転職しており,そもそも生活援助金を支払う前提を欠くものであって,もし原告がT社に就職することを被告が認識していたならば,右のような金員支払の合意をすることなどあり得なかった。

(2) 仮に,本件覚書4項の「退職金」が労働契約上の退職金であると解するとしても,原告が被告を退職した後,原告が以下のような懲戒解雇(就業規則40条2(3)及び(4))に該当する行為を行っていたことが判明した。原告は,退職時に原告との間で締結した覚書に基づいて退職金の支払を求めているところ,もし原告の退職時にこれらの行為が判明していたならば,原告は就業規則により懲戒解雇され,円満退職を前提とした右覚書など締結することはあり得なかったにもかかわらず,原告はこれを秘して被告と本件覚書を締結し,円満退職しているのであり,このような原告の右覚書に基づく退職金請求権の行使を容認することは懲戒解雇者と比して著しく均衡を失する。

ア 原告は平成9年5月ころ,T社への転職を決意し,被告在職中に,T社から携帯電話の貸与を受けるとともに,被告の顧客データから学会参加見込者を拾い出して,原告の妻甲野花子及び長女甲野月子に手伝わせて,T社のダイレクトメールの発送を行い,その報酬として,同年5月から同年9月までの間月額5万円を得るなど,T社の営業活動を行った。

このように,原告が被告に在職中,被告と同一業種を営むT社の営業行為を行うことは,雇用契約上の付随義務としての競業避止義務に違反する行為である。

イ 原告は,平成9年8月26日ころ,被告のコンピュータ内のデータを被告所有のMO(光磁気ディスク)にコピーしてT社に提供し,右MOにコピーされた顧客データをT社のコンピュータに入力して,T社をして被告の顧客データにより営業活動を行わせ,さらに,自らが被告を退職してT社へ転職した後は,T社のコンピュータに入力された被告の顧客データを利用して営業活動を行った。

原告の右行為は,不正に被告の営業秘密を取得し,かつ,使用したとの不正競争行為に該当するのみならず,刑法上被告の顧客データが入力されたMOの窃取行為に該当する。被告の顧客データは永年にわたる営業活動の集積により獲得された重要な財産であって,これが被告と同一業種を営むT社に持ち出されたことによって被告が被った損害は計り知れない。

なお,原告が移動した顧客データが後記画面1及び画面2のみであったとしても,なおそのデータによってT社の営業活動が可能になるのであって,このことは被告に重大な損害を及ぼすというべきである。

ウ 原告は,平成9年10月16日,被告内においてオフィスコンピュータ端末機を操作し,顧客データを消去,混入させ,被告の顧客データを損壊した(原告が,電子計算機損壊等業務妨害罪にて逮捕,執行猶予付きの有罪判決を受けた容疑事実は,この顧客データの消去に係る事実である。)上,被告のデータがバックアップされていたMOまで初期化し,顧客データの復元を不可能にした。

被告は,顧客データから旅行履歴等を検索してダイレクトメールを送付する方法によりツアー参加者の募集を行っている。原告の右行為が,そのような被告の重要なデータを消去した点で重大であることは明らかである。さらに,他人のデータを混入した行為についても,被告はこれによりデータをそのまま使うことができない状況に陥り,データ復旧までの期間営業活動に致命的支障を生じ,多大な損害を被った。

(二) 原告の主張

(1) 被告の主張(1)について

本件覚書4項の「退職金」が労働契約上の退職金であることは,前記1(二)のとおりである。

(2) 被告の主張(2)アについて

原告がT社への転職を決意したのは平成9年8月終わりころであることは,前記3(二)のとおりである。

原告が携帯電話の貸与を受けたのは,平成9年にアイルランドのダブリンで開催された世界肺がん学会において,被告がホテルを確保できていなかったため,T社からこれを譲ってもらうこととなり,この際その連絡用という目的であった。原告は,その後も被告を退職するまでこれを返却しなかったが,事実上ほとんど使用していなかった。

原告の妻がT社からその口座に5万円の振込みを受けたことは認めるが,あくまで原告の妻に対する報酬であり,原告とは関係がない。

(3) 被告の主張(2)イについて

原告が,平成9年8月26日ころ,被告のコンピュータ内のデータを被告所有のMOにコピーしてT社に提供し,右MOにコピーされた顧客データをT社のコンピュータに入力したことは認める。

しかし,T社がこれを用いて営業活動をしたことは一度もない。T社のコンピュータ内に入力されたデータは,「顧客登録」のデータのうち,画面1(顧客の氏名,現住所,電話番号,職業,所属先名等のデータ)及び画面2(画面1の英語表示)の部分のみであり,被告の重要な顧客情報(画面3(当該顧客の旅行歴,問い合わせ歴)及び画面4(備考))は入力されていない。そして,画面1及び画面2とはT社の営業活動にとって何の価値もないものであり,このことは,原告,被告とも承知していたことである。また,そもそも,被告及びT社において行っていた営業活動は,営業担当者の個人的な人間関係に基づくものであって,コンピュータに入力された顧客データを利用して大量にダイレクトメールを送付しても全く成果が上がらない性格のものである。

したがって,原告がMOを持ち出したことにより,T社に利得があるとか被告に営業上の損害が生じている旨の被告の主張は理由がない。

(4) 被告の主張(4)ウについて

ア コンピュータのハードディスクには容量による制限があり,このため常にメンテナンスが必要であった。他社で手配していて絶対に利用しない顧客,死亡した者,退職した者,資料のみの請求で旅行には行かない者等に関する不要なデータについては,残しておいても意味がなく,消去してメンテナンスをしなければならなかった。

一方,被告の顧客データは約5万人分の登録があるが,平成3年ころ被告の元社員Bが入力したものであること,公刊されている医療機関の名簿から引いてきた教授等の名前をそのまま入力してあるものや,既に被告が譲渡していた営業に関するアパレル業界の名簿が含まれていること,しかも,そのデータの実態は,片仮名で名前だけが入力されているものや,住所,勤務先のないもの,平成9年10月16日当時既にその内容を変更する必要があるものが大半であったことに照らすと,右顧客データには被告の営業活動に有用なものはほとんどなかった。

そこで,原告は,数少ない有用なデータを,5万件以上の全データからチェックしながら消去する方法を採るより,全データを一気に消去してから,数十件の有用データを戻す方法を採る方が,処理として早いと判断した。

イ このように,原告には被告の顧客データを殊更に損壊する認識はなく,データのメンテナンスの一つの方法としてデータの消去に及んだのである。原告が真に被告のデータを損壊するつもりであったなら,被告の従業員等による衆人監視の下で行うことはあり得ない。

被告は,原告がデータを消去したことに関し,データ中だれが被告の顧客であり,顧客でないのか,顧客であったとしてどのような経歴があり,どのような損害を被ったかについて,何ら主張立証していない。このことは,被告において具体的に損害生(ママ)じていないことの証左である。

ウ 原告は,データがバックアップされていたMOを初期化したことはない。

(5) その他の原告の主張

被告には退職金の不支給の規定がないから,被告がこれを不支給とすることは許されない。

また,被告は,別訴において,原告に対し,本件での被告の主張((一)(2))と同一の事実に基づいて損害賠償を請求しているが,右同一の事実によって,被告が右損害賠償請求権を獲得し,かつ,本件退職金の支払義務を免れることになれば,被告は実質的に二重の権利を得,逆に原告は二重の制裁を受けることになるのであって,そうすると,右事実((一)(2))の被告の主張)を被告が退職金の支払を免れる根拠とすることは許されないというべきである。

なお,原告が捜査段階あるいは公判段階において自らの罪状について自白したのは,保釈を得るための方便であり,したがって,そのような原告の答弁及び供述調書を重視するべきではない。

第三当裁判所の判断

一  争点4について

1  被告は,仮に本件覚書4項の「退職金」が労働契約に基づく退職金の意味を有するとしても,原告が被告に対して退職金を請求することは,原告の行為が被告の就業規則の懲戒解雇事由に該当する以上,権利の濫用に当たり許されない旨主張する。事案にかんがみ,まずこの主張の当否から検討する。

2  次の事実は,前提となる事実記載のとおりであるほか,当事者間に争いがないか,後掲各証拠によって認められる(証拠番号は各項の末尾にかっこ書きで摘示する。当事者間に争いのないことの指摘は割愛する。)。

(一) 被告において使用されていたコンピュータソフト

(1) 被告は,平成5年10月13日,コンピュータソフトとして,株式会社W社製の旅行業務用ソフト「マルチ・リテール1」(以下「マルチ・リテール1」という。)を導入した。

マルチ・リテール1は,顧客名簿の管理,顧客に発送するダイレクトメールの宛名印刷,顧客からの旅行予約の登録,顧客に対する請求書・クーポン券の発行,ビザ申請書や参加者名簿の作成,金銭データ集計表の作成など,旅行業に必要な機能が装備されており,これらの機能相互が完全に連動処理されて,重複する作業の手間や処理の漏れ,遅れを大幅に減少させて,効率的な業務処理ができる仕組みになっている。

(2) 被告の顧客は,マルチ・リテール1の「顧客登録」という名称のジョブ(機能あるいは作業のこと)内に登録,管理されている。この「顧客登録」は4画面構成になっており,画面1には氏名,現住所,電話番号,職業,所属先名等,画面2には画面1の英語表示,画面3には当該顧客の旅行歴,問い合わせ歴,画面4には備考の欄がそれぞれ設けられており,平成9年10月当時約5万名の顧客が登録されていた。

(3) 一方,マルチ・リテール1には「顧客データ同一人物チェック」という名称のジョブがあるが,これは,登録されている顧客データの中から重複している同一人物を検出し,重複データの整理,一本化を目的とするものである。

右ジョブの具体的な操作方法は,まず「処理種別1」で,氏名,生年月日,電話番号,パスポート番号等から複数の条件を指定して,同一人物と見なす条件を指定し,次に「処理種別2」で,残す顧客の優先順位の決め方を指定し,更に「処理種別3」で,同一人物チェックの処理方法を指定する。この操作により,同姓同名の異人物データを消去することなく,重複データの整理一本化を行うことができる。「処理種別3」の処理方法には,「印刷及び処理」という,データの消去等の作業と作業結果の印刷を同時に行う方法のほか,「印刷のみ」という,同一人物と見なされた顧客データの印刷のみを行う方法とがあり,誤った処理がされるとデータの復元が極めて困難であることから,操作画面上,まずは「印刷のみ」の方法によって操作するよう指定されている。

(<証拠略>)

(二) マルチ・リテール1の操作に関する原告の行為

原告は,平成9年8月27日,被告のコンピュータ内の顧客データをMO5枚にコピーし,その数日後,T社の従業員Cに手渡した。右MO内のデータは,同じくマルチ・リテール1が導入されているT社のコンピュータ内に入力された。ただし,T社のコンピュータ内に入力されたデータは,「顧客登録」のデータのうち,画面1及び画面2の部分のみであった。

また,原告は,被告を退職する直前の平成9年10月16日,被告内において,被告のオフィスコンピュータ端末子機1台を使用し,マルチ・リテール1内の「顧客データ同一人物チェック」ジョブを起動させ,片仮名が同姓同名である顧客のみを同一人物とみなすよう指定し,右「印刷及び処理」の方法によって,1066名の顧客データを消去させ,また,残された顧客データ809名についても,消去された顧客データの旅行歴,備考欄等のデータを混入させ,又はこれが混入された可能性が疑われる状況に至らせた。

(<証拠略>,原告本人,<人証略>)

(三) 原告の退職等

原告は,平成9年10月20日付けで被告を退職したが,その直後にT社へ入社し,同社の常務取締役に就任した。

(<証拠略>,原告本人)

(四) T社に対する強制捜査の結果等

被告は原告を電子計算機損壊等業務妨害罪にて警視庁に告訴し,原告は平成10年4月16日,右容疑で逮捕されたが,右容疑による強制捜査の結果,同月17日,T社の事務所において,被告の顧客データがバックアップされたMOが発見された上,T社のコンピュータに入力されていた6万1700名の顧客データのうち約5万名余は,被告の顧客データであることが判明した。

(<証拠略>)

(五) 被告の営業方法,原告の前記行動による影響等について

被告は,旅行業,とりわけツアー参加者の募集に関する営業方法の一つとして,コンピュータに入力された顧客データから,旅行履歴等を検索してダイレクトメールを送付する方法を採っていた。前記(二)記載のとおり原告がデータについて消去,混入したため,被告はデータの復旧作業に長期間を要したのみならず,被告のコンピュータ内の顧客データを利用できず,右復旧作業終了に至るまで,非効率的な営業活動を行わざるを得なくなった。

なお,T社においても,旅行業に関する営業方法の一つとして,右のような顧客データをもとにダイレクトメールを送付する方法が採られていた。

(<証拠略>,原告本人,被告代表者本人)

(六) 刑事裁判の結果

原告は,電子計算機損壊等業務妨害罪にて起訴され,同裁判において原告は起訴事実を認め,同年6月30日,懲役1年6月,執行猶予3年の有罪判決を受けた。

(<証拠略>)

3(一)  以上認定に係る事実によれば,原告は,平成9年8月27日からその数日後にかけて,被告のコンピュータ内の顧客データを,被告とその営業内容が競合するT社のコンピュータ内に移動したこと,また,被告を退職する直前の平成9年10月16日,被告のコンピュータ内の顧客データ1066名分を消去させ,残された顧客データ809名についても,消去された顧客データの旅行歴,備考欄等のデータを混入させ,又はこれが混入された可能性が疑われる状況に至らせたこと,被告においては,ツアー参加者の募集に関する営業方法の一つとして,コンピュータに入力された顧客データから,旅行履歴等を検索してダイレクトメールを送付する方法を採っていたこと,そのため,原告が被告の顧客データについて消去,混入させたことにより,被告は,データの復旧作業終了に至るまで,非効率的な営業活動を行わざるを得なくなったこと,右顧客データの消去に関し,原告は刑事訴追を受け,有罪判決を受けたこと,以上の事実が認められる。

そして,原告が顧客データを移動した行為及び顧客データを消去,混入した行為が,仮に原告の在職中被告に明らかになっていれば,被告の就業規則40条2(4)所定の懲戒解雇事由(会社内において,窃盗,横領,傷害等刑法犯に該当する行為を行ったとき)に該当,あるいは少なくともこれに匹敵するものであるというべきであり,また,原告が顧客データを消去した行為が,仮に原告の在職中に明らかになっていれば,同就業規則40条2(3)所定の懲戒解雇事由(刑事事件に関し有罪判決を受けたとき)に該当するということができる。

原告は,捜査段階あるいは公判段階において自らの罪状について自白したのは,保釈を得るための方便である旨主張するが,右主張においても,原告の行為が刑法上責任を問い得ないものであるとまでするものではないと解され,そうである以上,原告の右主張は右判断を左右するものではない。

(二)  なお,被告は,原告はT社のコンピュータに入力された被告の顧客データを利用してT社をして営業活動をさせた旨主張するが,これを認めるに足りる証拠はない。また,被告は,原告は被告においてバックアップのために保管していたMO内のデータを消去した旨主張し,証拠(<証拠略>,被告代表者本人)によれば,平成9年10月17日の時点で右MO内のデータが消去されていたことが認められるが,このデータ消去を原告が行ったことを認めるに足りる的確な証拠はない。さらに,被告は,原告が被告の顧客データを消去,混入させたことによって,被告が多大な損害を被った旨主張するが,その損害の具体的な内容や金額については,これを認めるに足りる証拠はない。しかし,右の被告の各主張に係る事実が認められないことによって,前記判断を何ら左右するものではないことは明らかである。

4  原告の主張について

(一) 原告は,被告及びT社での営業活動は,営業担当者の個人的な人間関係に基づくものであって,顧客データを利用してダイレクトメールを送付しても全く成果が上がらない性格のものであり,したがって,原告がT社に移動した被告の顧客データについては,T社の営業活動にとって何の価値もない旨主張し,これに沿う証拠(<証拠略>,原告本人)もある。

しかし,被告及びT社における営業方法の一つとして,顧客データを利用してダイレクトメールを送付する方法があることは,前記2(五)で認定したとおりである。また,前記2(一)で認定したとおり,マルチ・リテール1はダイレクトメールの送付が容易となる機能を有するものであるが,そのようなコンピュータソフトを導入している企業において,そこに入力されている顧客データを用いたダイレクトメールの送付が,営業活動としての意味に欠けるというのは通常考え難いというべきである。確かに,証拠(<証拠略>,原告本人)によれば,この種の営業活動における営業方法として,ダイレクトメールの発送以上に有益な方法があることが認められるが,そのことによって,ダイレクトメールの送付が営業活動として全く意味のないものであるとまで認めることはできない。

また,そもそも,原告の右行為が前記懲戒解雇事由に該当ないし匹敵するかどうかの判断に際して重視すべきは,競合会社に対して営業上の重要なデータを移動させたこと自体であり,T社に移動した顧客データがT社の営業活動に関して価値があるか否かという点は,仮にこれが否定されたとしても,そのことで,原告の右行為が前記懲戒解雇事由に該当ないし匹敵しないとの判断に至るものではないというべきである。もとより,被告の保有するデータとT社の保有するデータが全く同一であるなどといった事情が認められれば別論であるが,2(四)記載のとおり右両データが異なるものである以上,右のように解するのが相当である。また,前記2(一)(2)及び(二)で認定した事実によれば,原告が移動したデータは,「顧客登録」のデータのうち,画面1及び画面2の部分のみであり,被告の重要な顧客情報は画面3及び画面4に入力されておらず,画面3及び画面4をも入力された場合に比べて顧客データとしての価値が低いことが認められるが,そのことによって右判断(原告の右行為が前記懲戒解雇事由に該当ないし匹敵するかどうかの判断に際しては,競合会社に対して営業上の重要なデータを移動させたこと自体を重視すべきであること)が左右されるものではないというべきである。

なお,この点に関連して,原告は,その本人尋問において,被告における顧客データをT社のコンピュータに入力したのは,自らの固定客のデータを移動する手間を省くためにすぎず,それ以上に,被告の顧客データをT社において利用する目的はなかった旨供述する。しかし,仮に原告がそのような認識の下にデータの移動を行ったとしても,被告においてそのようなデータの移動を許可していたのであれば格別,そのような許可がなかった以上(右のような許可がなかったことは,弁論の全趣旨により認められる。),被告の顧客データがいわゆる競合会社であるT社に移動すること自体が,前記懲戒解雇事由に該当ないし匹敵する事実であるというほかはなく,したがって,右供述は前記3の判断を何ら左右するものではない。

原告の前記主張は採用できない。

(二) 原告は,顧客データを消去,混入した行為に関し,これはコンピュータのメンテナンスのためであった,被告の顧客データには不要なものが多く,数少ない有用なデータを残すため,いったん顧客データ全部を消去する方法を選択したにすぎない,したがって,右行為において原告には被告の顧客データを損壊する意図はなかった旨主張し,これに沿う証拠(<証拠略>,原告本人)もある。

しかし,証拠(<証拠略>,原告本人)によれば,原告は,右行為に際して,「顧客データ同一人物チェック」のジョブにおいて,「処理種別1」では片仮名名のみの条件,「処理種別3」では「印刷及び処理」の条件をそれぞれ設定してこれを行ったこと,このような条件設定を行うと,同一の片仮名名の顧客データが消去されることになることが認められるから,顧客データのメンテナンスのために右のような条件設定を行うことは通常考えられないというべきである。原告は,その本人尋問において,消去されるデータがより少なく,しかも,メンテナンスの目的を達成するための他の方法があることについて,十分な認識がなかったとの趣旨の供述もするが,証拠(<証拠略>,被告代表者本人)によれば,原告はマルチリテール1の操作について精通していたとの事実が認められる以上,右供述はにわかに信用し難い。

また,原告は,右行為をした前日の平成9年10月15日に,「顧客データ同一人物チェック」のジョブを利用して,通常定期的に行っていたメンテナンスをし,この時点におけるメンテナンスを終了させていた旨司法警察員面前調書において供述しており(<証拠略>),右供述の任意性,信用性についてこれを疑わせる事情は存しないところ,この供述を前提とすると,翌同月16日に更にメンテナンスのために「顧客データ同一人物チェック」による作業を行う必要性があったとは考え難いというべきである。

以上の事情を総合すれば,原告の右主張は採用できない上,かえって,同月16日に行った原告の作業は,原告が顧客データを消去あるいは混入させることを目的として行ったものであると認めるのが相当である。なお,原告は,衆人監視の下で原告が右のような目的の行為を行うことはあり得ない旨主張するが,コンピュータ端末の画面上での処理を,その場に居合わせた他の社員の目に触れない方法で行うことは不可能ではないと考えられるから,原告の右主張は採用できない。

5(一)  ところで,一般に,退職金とは,賃金後払いの性質及び在職中の功労に対する報償の性質を有するものと解され,前者の性質に照らせば,退職金支払請求権は,賃金支払請求権に関する労働基準法上の保護と同様の保護を受けるものということができる。しかし,このような一定の保護を受ける請求権であっても,これを請求することが権利の濫用に当たる場合を否定することはできない。もとより,一般の支払請求権と右のような保護を受ける支払請求権とで,それを行使することについての権利の濫用の成否に関する判断には,自ずと相違があり,後者についてより厳格な判断が行われなければならないというべきであるが,そうであるからといって,後者について権利の濫用に当たる場合があることを否定する理由もない。

当該労働者の退職金請求権の行使がいかなる場合に権利の濫用に当たるかについては,個別の事案に沿って判断せざるを得ないが,退職金の右性質,とりわけ,功労報償的性質の面にかんがみると,当該労働者に,その在職中背信的な行状等があった場合には,その行状の背信性の程度次第で,退職金請求権を行使することが権利の濫用に当たる場合があるというべきである。そして,在職中の行状等に背信性が認められるかに関しては,当該企業の定める就業規則において懲戒解雇事由とされている事由への該当性の有無も,その判断に当たっての重要な事情になるというべきである。懲戒解雇とは,使用者が,従業員の企業秩序違反行為に対する懲戒権に基づき懲戒処分を行うに当たり,特に著しい企業秩序違反行為,言い換えれば,使用者として看過し難い背信的な行状等があった場合に行う,労働契約関係を解消する措置であること,現に,就業規則上退職金支給規定が置かれている場合にあって,懲戒解雇の場合は退職金不支給の事由とされることが多いこと,以上がその理由である。なお,右の理は,当該企業に右行状等が判明したのが,当該労働者の退職後であっても変わるところはないと解される。たまたま当該使用者が当該労働者の退職後に右行状等を知ったとか,当該労働者が右行状等を秘したまま自主退職したなどというにすぎないのに,当該労働者が退職金の支給を受けられるというのは,退職前に右行状が判明していた場合との均衡を著しく失するというべきだからである。

また,退職金支払請求権は,個別の労働契約上退職金の支給に関する合意がある場合,あるいは,就業規則上退職金の支給の定めがある場合等に発生するところ,前者の場合,退職金支給の合意に至る経緯,そのような合意をするに至った動機等の事情次第では,当該労働者の行状等の背信性にかんがみ,退職金請求権を行使することが不当であると解される場合があり得るから,右の事情は,当該労働者が退職金を請求することの権利濫用性を基礎付けるものとなる場合があるというべきである。

(二)  これを本件についてみるに,前記3記載の事実及び判断によれば,同記載のとおりの原告の行為は,懲戒解雇事由に該当ないし匹敵するものであり,かつ,その背信性は重大であると認められる。

一方,前記第二の一2記載のとおり,本件の退職金の支給合意は,原告が被告を退職する直前の平成9年9月30日に,右退職に当たっての条件等を定めた本件覚書における所定事項の一つとして行われたものであること,同5記載のとおり,被告の就業規則上退職金支給に関する定めはないこと,以上の事実及び退職金一般の功労報償的性質に照らせば,本件の退職金の合意は,原告の右退職に当たって被告が特別かつ例外的に原告に対してこれを支給する趣旨にあったものと認められる(被告は,右合意は円満退職を前提としたものであった旨,これと同趣旨の主張をしているところである。)。そして,原告は,右合意の前及び直後に前記3記載のとおりの行為に及んだというのであるから,これらの行為は右合意の趣旨を無に帰せしめる性質を有するものであったというべきであり,このことに,前記のとおりの右行為の背信性の程度にも照らせば,原告の被告に対する本件退職金請求は権利の濫用に当たると解するのが相当である(右行為が原告の退職後に被告に判明したことがこの判断に影響を及ぼすものではないことは,前記のとおりである。)。

6  原告は,被告には退職金の不支給の規定がない以上,被告がこれを不支給とすることは許されない旨主張する。しかし,退職金不支給規定の存否によって前記の判断が左右されるものではないことは明らかであるから,原告の右主張は採用できない。

7  原告は,被告が別訴において原告に対して損害賠償を請求していることに関し,被告の本件での主張に基づいて本件退職金の支払義務を免れることになれば,被告は実質的に二重の権利を得,逆に原告は二重の制裁を受けることになるのである旨主張する。しかし,被告の原告に対する損害賠償請求と本件退職金請求とを同列に論ずることができないことは明らかであり,原告の右主張は失当であって採用できない。

二  以上の次第であって,その余の点を判断するまでもなく,原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判官 吉崎佳弥)

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